あのときのわたしは健常者恐怖症|その1
まえがき
- 大っ嫌いだったあのときのわたし。
- 何度も「死にたい」と思っていたあのときわたし。
- だけど死ぬのが怖くて死にきれなかったあのときのわたし。
あの時味わった聴覚障害が原因の家庭問題やいじめの体験談を告白します。
そして体験談を踏まえて自分が感じた聴覚障害者と健常者との壁、価値観を自分なりにまとめて発信したいと思います。
正直、この記事を書こうかどうか何回も悩みました。
自分の辛い思い出の記憶を無理やり掘り起こして公の場へ発信するのですから、わたしにとってはメンタルの面でメリットよりデメリットの方がはるかに大きいです。
ですがそれよりも
この記事を発信することで少しでも世間の(聴覚障害だけに限らず)様々なマイノリティパーソンへの視線が変わってくれたら
そう信じてこの記事に執筆することにしました。
追記
記事を読んで自分なりに感じたことなどあれば、twitterのリプやDMにてぜひ聞かせて欲しいです。
よろしくお願いします!
なお、ツイッターアカウントはこの記事の下記に搭載しています。
わたしは誰?
体験談の前に、わたしの背景をお話しします。
わたしは聴覚障害を持っています。
正式名称は「先天性感音性難聴」
聴力の数値は両耳平均約90db
聞こえの程度は補聴器をつけた状態で静かな環境の中、1対1の会話ならば意識すれば声が認識できるほどです。
意識していないと声の認識できず、集団だと意識していても会話を拾うことが出来ません。
(聴覚障害の中でも様々な分類があり、それによって聞こえの程度も異なります。詳しくはまたのちのち記事にしたいと思います。)
ごく普通の健常者の親の元から耳が聞こえないわたしが生まれました。
わたし以外は家族も親戚も健常者です。
わたしには物心ついた頃から母親がいませんでした。
初めてわたしの生みの母の顔を知ったのは、わたしが18歳の時、幼馴染から写真を見せられた時です。
幼少期の物心ついた時からずっと母に会っていません。
わたしには姉がいて、父と3人家族で生活を送っていました。
幼少期のわたし
誤った愛情表現
物心がついた時わたしは4歳。
聴覚障害者の児童だけが集まる幼稚園に通っていた。
一般と比べると数こそ少ないが、全国には聴覚障害者だけが通う幼稚園や学校がある。
場所によっては手話を第一言語として活動するところもあるが、わたしが通っていた幼稚園は手話は使わず、口話とキュード(発音発語の補助手段の一つ)を使って活動していた。
特に当時幼稚園が一緒だった幼馴染の親の話からすると、わたしは聞き取りや発音は幼稚園で特に父に厳しく訓練されたそうだ。
今思うと父はきっと、将来健常者となるべく不自由なく過ごせるようにと、とても必死で周りのどの親よりも人一倍努力してくれたんだと感じます。
だがどんなに訓練していても聞こえの程度には限界があった。
父の言葉がうまく聞き取れないでいるといつの日からか、父はわたしに手を上げ始めました。
「こんなに訓練したのになんでわからないんだ!!」と。
相当悔しかったんでしょう。
誰よりも訓練頑張っていたと周りの親が言うほどですから。
父は職業名こそ言えないが、世間から見て入るだけでもすごく厳しく、とても忙しい職業だった。
仕事で週に2、3日家に帰ってこないこともあった。
父が帰らない日は毎日親戚の人が家まで来てわたし達の面倒を見てくれた。
しかし、そんな忙しい父でも家にいるときは、毎日家でご飯を作ったり洗濯したりと淡々と家事をこなし、休みの日は朝から大きな公園まで遊具を車に積んで連れて行き、3人で一緒に遊んでくれた。
仕事明けの休みでも昼間布団で寝ることはほぼほぼなかった。
父は母がいないにも関わらず、弱音一つ吐かず私たち子育てをしてくれた。
そんな日々を送ってかなりストレスも溜まっていたのだろう。
父の話を上手く聞き取れないわたしの態度を見せると頻繁にイライラするようになり、そのたび手をあげるようになった。
ビンタとかそういう生ぬるいものじゃなかった。
殴られて口内は切れ、目の周りは腫れ、頭にたんこぶが出来、髪を引っ張られて頭皮から出血し、体のあらゆるところに痣ができるようになった。
一目見ても酷いような状態の日は体調不良を口実に幼稚園を休むことも時々あった。
行きつけの床屋の理容師からは頭皮を見てすごく心配されたのを今でも鮮明に覚えている。
聞こえたフリ・わかったフリ
父から暴力を受けるようになるとわたしの防衛本能が働く。
それなら聞こえたフリをすればいいんだ。
わかったフリをすればいいんだ。
と思うようになる。
それが嘘つき少年のわたし始まりである。
だけど聞き返したらまた怒られる。
わたしは笑顔で相槌を打ち、父の話聞こえてるよという態度を示す。
すると父も機嫌が良くなり、しばらくはその方法でやり過ごしていた。
それだけではなく、自分に不都合なことが起きて誰かに怒られそうだと察したときは、そのたび嘘をついてやり過ごすようになってきた。
しかし、そううまいことは長く続かなかった。
ある日、いつものように話が聞こえてなくても笑顔でわかったとうなづいていると、
「今なんて言うたか、言うてみ」
父が言う。
当然答えられるはずもなく、わたしは口ごもってしまう。
それを見兼ねた父は「なんで嘘ついた?」と再びわたしに手を上げ始める。
聞き取れたと嘘をついても暴力を受ける。
そんな理不尽なループが幼少期ずっと続くようになった。
そしていつの間にかわたしにとって家とは、
一刻も早く恐怖から逃げ出したい気持ちを抑えて生き延びる場所
となっていた。
そしてわたし自身、父の前でなくとも
悪い癖がつくようになってしまった。
次回へ続く
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